わたしのパートナー my partner
家事をするとき、仕事にとりかかるとき。
これがなくては始まらない、というものがあります。
ふだん、とくべつに意識していなくても、 “ない”と気持ちが落ち着かない大切 なもの。
連載「わたしのパートナー」では、いろんな仕事に携わる方々の、なくてはならない相棒を通して、仕事や暮らしへの思いを伺っていきます。
建築家
中村好文さんのパートナー・前編
「大磯Cliff House(クリフハウス)からの眺め」
「お天気が良ければ、いつもここにいますね」
中村好文さんが案内してくれたテラスからの眺めに目を瞠る。
さえぎるもののない、視界いっぱいの空と海。
眼下に大磯の町を西へ横断する列車が小さく見える。
「晴れてたら富士山もあのへんに顔を出すんだけどね」
訪れた夏の日はあいにく雲が多く、海も空も霞がかっていた。
けれど、なんだろうこの気持ちよさは。
太平洋の明るい海が光を抱いて白く輝いている。
大磯は古くから別荘地として知られる、相模湾に面した静かな海沿いの町。中村さんが週末を過ごす大磯Cliff House(クリフハウス)は2003年の竣工で、もともとはサーフィンが趣味だったクライアントのために設計した高台に建つ小住宅だ。それを2014年に中村さんが引き継いだ。
「最初の一年は賃貸で借りていました。でも20年前に敷地を下見に来たときからこの眺めに心惹かれてたので、正式に譲り受けることにしました」
生まれ育ったのは、千葉県の九十九里。少年時代を海の傍らで過ごしたからか、海に対して特別な思い入れがあるのだと語る。
「九十九里浜と大磯では海の見え方が違うけど、やっぱりどことなく心が安らぎますね」
「子どもの頃、夏休みのラジオ体操は浜でやるんですけど、出かける時に母親から判子を押してもらう用紙をザルの中に入れて持たされて。で、ラジオ体操の前に、両足で波打ちぎわの砂地を掻いて(腰をひねる)、貝が足に触れたら採る。あれは、かがんで採らないんです。こう、足腰をひねりながら……で、それがもうどんどん採れるときがあってね、ザルいっぱいになるんです」
――アサリでしょうか?
「小ぶりのハマグリ。ゼンナって呼んでました。ゼンナがうんと採れてると、もう体操どころじゃなくてね(笑)」
好文少年が持ち帰ったゼンナは、すぐさま朝ごはんの味噌汁の具になった。
「塩水を張ったアルミの鍋にざっとゼンナを開けて包丁を差して。金気を嫌って貝が砂を吐くのを『包丁で脅かすと砂を吐く』って母がよく言ってましたね」
ここ大磯でも中村さんが越してきた頃までは地引網漁が盛んだったという。
「でも、今だと大磯はしらす漁が有名ですね」と奥さまの夏実さんから声がかかる。
「しらすは傷みが早いから釜揚げにするところが多いんだけど、『生しらすあります』って貼り紙を出してる店も結構ありますよ」
実は夏実さん自身も大磯という土地と縁があった。
「知り合いがいて、学生の時に大磯へ来たことがあったんです。その時からなぜかこの土地が大好きで。本当に何にもない場所だったけど、住むならここがいい、こういうところがいいなっていう風にずっと思っていました」
染織家として活動している夏実さんは、クリフハウスとは別のアトリエ(やはり大磯)で過ごすことも多いという。
1週間の仕事を終え、金曜日の夜に大磯へやってくる中村さんとクリフハウスで合流したりしなかったり。それぞれ自分の時間を大切にしつつ、一緒にいるときにはどちらからともなく台所へ立って料理をし、昼は軽くビールやワインを飲み、夜はしっかりワインや日本酒を飲んで思い思いの時間を過ごす。
とはいえ、このクリフハウスが完全にオフのための居場所かというと、それはまったく違うようだ。
「7割ぐらい、仕事してますね」そう夏実さんが言うと、
「そうねえ。いつも図面を書いたりスケッチしたりしてるかな」と中村さんがノートパッドのようなものを取り出して見せてくれる。
「これ、移動中に電車の中でスケッチするのに使う道具。だいぶ昔にね、自分で作ったんだよ」
方眼紙やトレーシングペーパーなど何種類かの紙を四隅で留めることのできるスケッチ台紙。裏返してみると竹の物差しがきれいに仕込まれている。
「そうそう、仕込み杖ならぬ仕込み差し(定規)。この定規は小学生の時に使ってたものなんです。大学に入った時に、竹の物差しは温度で伸び縮みしないから精度がいいと。それを薄く削る。鉋でちょっと削って、最後はガラスのかけらでシュッシュッシュッと削って薄くする。そうするとよくしなるから、測りやすくなるんですよね」
もともとは30cmだった竹の物差し。ともに教鞭をとっていた建築家の宮脇檀さんがいたく気に入り、学生たちに「これ素晴らしいよ。こうやって使うんだよ」としならせて見せた折りにバキッ!
「宮脇檀に折られちゃった(笑)。それで今は20cm。でも便利ですからね、今も使ってます」
パッドの大きさはB5サイズ。パッと見たときに全体を視界に収められる大きさがちょうどいい。このスケッチ台紙もまた中村さんのパートナーに違いない。
「これまで作ってきたすべての建物の多くはここから始まっています。僕は手で考える人間なんで、こうして手を動かさないと頭が働かないんです」
●わたしのパートナーvol.14前編
中村好文さん
「大磯Cliff House(クリフハウス)からの眺め」
なかむら・よしふみ●レミングハウス主宰。おもに個人住宅を手掛け、その台所づくりで人気を博す。食べる、飲むはもちろん料理もするのも好き。エッセイの名手としても知られる。『百戦錬磨の台所』(学芸出版社)、『意中の建築』(新潮社)など著書多数。愛媛県松山市の伊丹十三記念館にて、企画・プロデュースした「食べたり、呑んだり、作ったり。」展が開催中。
写真・大段まちこ 文・太田祐子