わたしのパートナー
my partner
家事をするとき、仕事にとりかかるとき。
これがなくては始まらない、というものがあります。
ふだん、とくべつに意識していなくても、 “ない”と気持ちが落ち着かない大切なもの。
連載「わたしのパートナー」では、いろんな仕事に携わる方々の、なくてはならない相棒を通して、仕事や暮らしへの思いを伺っていきます。
「ダンディゾン」、「ギャラリー·フェブ」オーナー
引田かおりさんのパートナー·後編
「冷えとり靴下と腹巻き」
この春、引田さんは一冊の本を上梓した。『「どっちでもいい」をやめてみる』というタイトルに、はっと胸を衝かれる人も多いかもしれない。
「みんなもっと元気に、幸せになってほしい。そういう気持ちをこめて書いた本です。日本人ってなにも強制されていなくても空気を読んだり、忖度したり、やっぱり自分のことを後回しにしがちです。いつもならそれで問題がなくても、いざという時、その大切なときに自分の気持ちを優先するためにも、ふだんから選び取る力をつけておいてほしいと思うから」
ウインドウに並ぶケーキのなかで自分はどれが食べたいか。
「これが人気です」「これが限定品です」そんな情報をもとになんとなく選ぶのではなく、私が、自分が何を食べたいかをしっかり胸に抱くことが大切なのだと、引田さんはいう。
「人の言葉や情報を頼りに生きていると、大事な時に大切なものを失ってしまうような気がして。それこそ最終的に人のせいにしてしまうこともあるんじゃないかな。だから、自分の気持ちで選び取ることが大事ですよっていう事を言いたくて。そこで何か間違ったとしても、立ち去ったり、止めたり、できることはあるはずだから」
自分を後回しにしがちだというのは、ギャラリーを訪れる女性たちを見ていても感じることだという。
「まだまだ、自分の意思だけで買い物する方が少ないように思います。主人を連れてきますとか、どれが一番売れてますか? とか。お得感みたいなものをすごく気にされる方もいます。ご自身の気持ちはどれが好きだって感じてるんだろうと思うと、なんだかもったいない気がしてしまって」
どこか若かった頃の昔の自分を見る思いもあるのかもしれない。
窮屈で苦しかった30代を乗り越えて、ギャラリーを始めた。この作品を紹介したい、この人と仕事がしたい。そんな自分の直感を信じて展覧会を運営していくなかで、「やってよかった」という事柄がどんどん積み上がる。「直感を信じること」「自分を信じること」が引田さんをどんどん変えていった。
「そうして空っぽだった泉に少しずつ、少しずつ自信という水が戻ってきたかんじです」
そもそも、2003年のダンディゾンとギャラリー·フェブのオープンも直感が教えてくれたことから始まった。
「前作の『しあわせのつくり方』には、店をオープンした理由を、住んでいる街に自慢できるパン屋があるといいなと思ったから、と書いたんですが、それは、じつは後付けの優等生的な答え。ほんとうは、“パン屋がやりたい”“パン屋だ!”って。ほとんどそんな思いつきだったんですよね」
パンが大好物だったということもなく、今も朝食はほどんどお餅かおにぎり。「むしろ、みんなもうちょっとご飯食べましょうって本気で思っているくらいで。
なんでしょうね、なにかそのときは、もう“パン屋をやりなさい”ってなにかに言われたかんじですよね」
その直感にしたがって、まずはビルを建て、パン屋を始めることを決めた。1階にお店、上階は事務所にして空いたスペースは貸して、そんな心づもりも友人の言葉で一変する。
「ここでギャラリーをやったらいいんじゃない?」
「え? 無理無理」
そう言いながらも、「ここにイイノナホさんの作品がずらりと並んでたらすてきだろうな」と考えている自分がいた。
「友人のひとことで、バーっと世界が広がっていったんです」
そしてその決断は、今の引田さんにまっすぐつながっていく。
パン屋を始めるという最初の思いつきがなければ、ギャラリーも誕生しなかったし、そこから始まった今のつながりも、出会った大事な人たちもいなかっただろう。
「今だからこそわかること、言えることがたくさんある。“なんとなく”とか、ふいに“ピンときた”ことには、自分の中にある本当の気持ちが含まれてるんじゃないかな。だから、迷っている人には、そういう直感とか思いつきにしたがう勇気を持ってみませんかと伝えたい。こんな時代なのでね、『ここに行くのやめておこう』とか『今日はこっちのルートで行こう』とか、そういうことが本当に自分の生死に関わってくるかもしれないじゃないですか。人は本来そういう直感を持っていたんだけれども、現代の生活でその力は薄まってきていると思うので、ひらめきを感じたり、心の声が聞こえたときには、しっかり耳を傾けてもいいんじゃないかと思います」
ギャラリーの窓から外を眺めながら、引田さんが言う。
「この場所、隣が公園でよかったですね、とよく言われるんですけど、元は競売にかかっていた土地だったんですよ。ターセンとふたりで草ぼうぼうになっているところにいろんな花の種をまいて、花が咲いたらちょうちょうがやってきて、子どもたちが喜ぶじゃないですか。そういう写真を撮って、武蔵野市に、企画書を送って」
ふたりは、隣の空き地を公園に変えたのだった。そんなことふつう思いつかない、そう伝えると、
「アンテナはやっぱりいつも張ってるんですよ。お店の隣の土地だから、そこがどうなるのかは気になりますから」
どうやら競売にかかっているらしい。だとすると買い手によっては何が建つかわからない。武蔵野市は緑化に力を入れているから、もしかして?
「結果がでるかどうかはわからないけど、やれることはやっておこうと思って」
その行動が、原っぱといってもいいほど雰囲気のいい小さな公園を生み出し、この穏やかで健やかな一帯の雰囲気を守ったのだった。
すぐにあきらめない。やれることはやる。
「だれでもそういう力はもってるんです。たとえば、まず口に出してしゃべることって大事です。『引っ越そうと思ってる』って誰かに話すだけで『あそこ空くわよ』とかつながっていくことも多いし。だから、いつもアンテナは高く、自分が目にするもの、耳にするものを研ぎ澄ませておけば、なんらかのメッセージを受け取ることができる。まったくの素人だった私たちがプロデューサーに依頼してパン屋を開いた時、3年は赤字を覚悟してくださいと言われたけど、初日から大行列で。いろんな奇跡が積み重なってそうなったと思うんですけど、自分の私利私欲ではなく、これはやるべきことだったんだと受け止めました。だったらどうすればこれから、世のため、人のためになるのか、ずっと考え続けています」
引田さんと話していると、その行動原理が、人の笑顔のためだったり、少しでも社会をよくしたりすることにあるということが言葉の端々から伝わってくる。前作『しあわせの作り方』にも、ターセンさんが会社員として忙しく働いている頃、「あなたのその仕事は人のためになっているのか」とカーリン(引田さんのこと)から問い詰められることがよくあったと書かれていた。
「世のため、人のためというと大げさに思われるかもしれないですが、それはずっと自分のなかにあること。高校がカトリックで、博愛を説く場所のはずが成績でクラス分けされていたり、子供心にも納得いかなくて。そういう思春期を過ごして、元気な自分ができることはなにかと考えて奉仕部を作ったりもしました。今もそうですが、そういう行動が罪悪感の裏返しじゃなくて、愛をもってやるっていうのが自分の健康を害さないためにもだいじなこと。そう思います。してあげた、ではなくて、私がやりたくてやる、という」
その思いは、一緒に仕事をするアーティストたちの闇に寄り添って体調を崩していたひとつの原因だったかもしれない。でも、時を経て、いろんな人と出会い、経験を積んだ今の引田さんはそんな闇も吹き飛ばすほどパワフルだ。
現在のコロナ禍において、ギャラリー·フェブは展覧会を中止、即座にウェブを新しく作り直して、小さな展覧会をオンライン上で開いて作品を販売している。ダンディゾンは通販のほか、予約制でセット販売をするなどやはり新しいチャレンジを続けている。
「お叱りを受けることもあります。どうして自由に買い物ができないのか、とか。でもこういう時だからこそ、私は自分が信じることしかできない。お客様のことはもちろん、従業員の安全を守ることも私にとってはすごく大切なことだから」
一緒に働く人たちのうち、だれかがすごく辛い思いをしているなんていやだと引田さんは言い切る。
「自分が関われるところは、だれもがハッピーなほうがいいじゃないですか。私もターセンもこれまで得てきた自分の知恵や工夫を若い人たちにつないでいきたいと思っていて、今はそれが仕事になっている。幸せだなあと思います。理論物理学者の佐治晴夫さんが言った『未来は過去を変えられる』という言葉は私にとってはすごく救いで、どんなに失敗した過去でも今がよいと思えれば、その過去はぜんぜんマイナスではなくなる。受験に失敗したり、彼に振られたり、もっとつらい絶望もある。でも、今笑っていられるなら、それは大切なかけがえのない時間だった。そんなふうに言える毎日を送りたいと思っています」
わたしのパートナーvol.7 後編
引田かおりさんのパートナー
「冷えとり用腹巻きと靴下」
引田かおり●ひきた·かおり 夫のターセンさんとともに、吉祥寺のパン屋·ダンディゾン、ギャラリー·フェブのオーナーをつとめる。出会う人を幸せにする笑顔の持ち主。著書に『しあわせなふたり』『しあわせのつくり方』(ターセンさんと共著)など。読者の背中をそっと押してくれるような新刊『「どっちでもいい」をやめてみる』が好評発売中。
W&fW(靴下)
写真·大段まちこ 構成、文·太田祐子(タブレ)
*引田さんが着用しているのは、CHECK&STRIPEのお仕立て部門「THE HANDWORKS」でオーダーをお受けしている「スタンドカラーのワンピース」です。(「パターン」としての販売は、CHECK&STRIPEのONLINE SHOPで次回予約販売からご紹介予定です。)