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わたしのパートナー

わたしのパートナー

my partner

家事をするとき、仕事にとりかかるとき。

これがなくては始まらない、というものがあります。

ふだん、とくべつに意識していなくても、 “ない”と気持ちが落ち着かない大切なもの。

連載「わたしのパートナー」では、いろんな仕事に携わる方々の、なくてはならない相棒を通して、仕事や暮らしへの思いを伺っていきます。

 

 

昵懇(jiccon)

大西麻子さんのパートナー 後編

「こむぎことミモザ」

 

 

 

ミモザとこむぎこと大西さん。3人の暮らしはすこぶる快適で、大西さんは湘南に帰ってきてよかったと実感している。というのも、本来料理の修業をしてきて、料理作りで生きていきたいと思っていたにも関わらず、東京で始めた店はなぜかカフェで、お菓子作りのほうで人気になってしまっていたから。

「不思議と、流れでそうなっちゃって」と大西さんは笑うのだが、お菓子づくりで人気になることだってかんたんなことではないはずだ。

 

そもそも、最初の店を始める時も湘南で物件を探したが、まったくいい場所がなかった。そうしたら当時住んでいた世田谷区の経堂にいい物件が見つかった。

「店をやるなら、なるべく若いうちがいいと思ってとりあえず始めちゃおう。でもいつか帰ろうとも思ってました」

場所柄、料理よりもカフェのほうに需要があった。お菓子を焼いてみたら評判がよく、お客さんのリクエストに応えるうちにパンや焼き菓子の種類がどんどん増えていく。

「こんなこと言うとお客さんに失礼だし、自分でもおかしいと思うんですけど、料理の道に進んでいたのになぜかお菓子の人みたいになっていくのが不思議でした。しっかり修業したわけでもないのに。でも、やっぱりずっと料理のほうが好きだったんですよね」と申し訳無さそうな顔でいう。

そして、ある日。完全に気持ちが東京から離れた日が訪れた。いやなことが重なって、その日は雪も降っていた。登録していたネットの不動産情報を見たら、今の物件が現れた。葉山で、かんじのいい古民家で、飲食用の物件。

「お、と思って」

問い合わせしたら「内見できます」。ほかの希望者もいたはずなのに、トントン拍子でその物件を借りることができたのだった。

「とすると、経堂の店は閉めなきゃなんない」

順番がおかしいような気もしたが、もうこんな物件は出てこないと思ったから、大西さんは決断した。7年間、経堂でがんばった。よくやった。とはいえ急には出られないから、3ヶ月ほど経堂の店を続けてから、葉山で昵懇を始めた。半年前にはまったく考えてなかった引っ越し。またしても大西さんは流れに乗ったのだった。

ちなみに店名の「昵懇」は物書きの友人がつけてくれた。経堂の時も店名を聞かれて答えるのがこそばゆく、苦手だったので、次になにか始めるときは誰かにつけてもらおうと思っていたという。

「内装工事のときに見に来てくれて、その帰り道に車を運転しながら降りてきた言葉が『昵懇』だったそうなんです。漢字だとちょっと堅苦しくて難しいし、彼女は『jiccon』とローマ字表記で提案してくれたのですが、私は『昵懇』の文字の佇まいに惹かれたし、文字について調べてみると『昵』の漢字は中国では『味を馴染ませる』というような意味合いでも使うと。私の中でますます漢字の『昵懇』でいこう!と。物件の真っ黒な外観ともよく合うな、とも思ったし、ちょっととっつきにくい感じ(笑)も気に入ってます」

 

 

 

仕切り直しの日々が始まった。昵懇は料理でやっていきたい。けれど、すぐに順調にいくわけでは当然なかった。

「最初はやっぱりお菓子の注文をたくさんいただいていて、それをこなすのにかなりの時間を取られていました。あとは料理教室を始めてみたり。でも、私はきっちり分量を決めたレシピが書けないんですよ。いや、ちゃんといちいち測って記録すればいいのかもしれないけど、素材って毎日違うもので、塩ひとつ決めてしまうことができなくて。そうこうしているうちにニコが亡くなって(前編参照)」

大量のお菓子を焼いていくうちに、コロナ禍の生活が始まった。

「そして、ミモちゃんが来て、こむちゃんが来て。今、ようやく先のことが見えてきたというか、本来目指していた方向へ進んでいる気がしています」

 

 

 

 

この日、大西さんが作ってくれた料理はミネストローネ。大豆に大根、セロリにベーコン。素材の味がしっかりしていて、それぞれに相応しいやわらかさ。添えられたソーセージも旨味たっぷり。丸パンはやわらかく、でもバリッとした皮が香ばしい。デザートはいちじくのタルトのアイス添え。

 

うん、やっぱりおいしいですよ、そう伝えると、

「お菓子については、まだなんかなあ、って自分で思ってるところがある。いつになったら堂々と『お菓子作りやってます。おいしいですよ』と言えるんだろう。『まあ、あるよ〜』『食べます〜?』としか言えない。『ふつうだよ〜』って。でも、経堂で、お菓子をすごくがんばって作った時間があったから、今、デザートが作れると思うといいことだらけなんですけどね。お料理がおいしくて、デザートまでおいしいとやっぱりみんなうれしいから」

 

 

 

作るところを見ていたから、ソーセージが自家製なのは知っていた。ひょっとしてパンも?と聞くと、ちょっと照れたようにうなずく。

「そう。なんか、なんでも作りたいですよ、自分で。パスタも自分で打ちたいし、ソーセージも作りたいし、ベーコンも自分で燻製したい」

パンまでは想像していたけれど、ベーコンまでとは。そして、この日タルトに添えられたアイスクリームも自家製だった。

「タルトを焼くにしても、生地から作ると2、3日かかるし、ミネストローネを作ろうと思ったら、豚肉を塩をまぶすところから始める。だから、週末しか営業していないっていっても、平日はその週末の料理のための買い出しや仕込みで手いっぱい。インスタグラムにこむちゃんとの散歩の画像しかアップしてないから、みんな土日以外なにしてんの?って思うかもしれないけど、ほんとに自分なりに忙しいんです(笑)」

 

 

 

「いろいろ自分に言い訳をしてきたけど、このコロナの状況でリセットされた。まずはしっかり自分の料理を作っていこうと思います」

大西さんの心は定まった。お菓子も13年間、コツコツコツコツ何万個も焼いて人気になった。だったら料理もそれくらいコツコツ続けていけばいい。

そしてもうひとつ大切なことがある。

「『ま、いっかこんなもんで』というのをやっちゃうと、ずっと後悔してる自分がいるんですよ。お客さんはおいしかったって言ってくださったけど嘘に違いないってずっと後悔して。自分のイメージ通りのものを完成させるには、労力と時間が必要。体がくたくたになったとしてもひとつひとつやり遂げていかなきゃいけない。そうやって初めて、お客さんはまた来てくれるし、好きなお友達を連れてきてくださる。結局、それがいちばん大事なんじゃないかなって思って」

手を抜くことがストレスになる。必要だと思うことをあきらめるのも嫌。

「それが必要な材料なら、赤字になったって省かない。とほほほ、とも思うけど、それでまたお客さんが来てくれたらいい。お客さんが何度も来てくれることで、私の料理もどんどん変わっていくと思うから。この方はこういうのが好きなんだな、だったらもっとなにか、とアイデアが湧くかもしれない。そうしてお客様に『よかった』って言ってもらえて、それが積み重なっていけば、幸せなことだから」

 

 

 

そんなふうに思えるようになったのも、ミモザとこむぎこのおかげかもしれない。

「料理もサーブもなにもかもひとりきりでやるのはハードルが高い。あんまりむすっとしてるわけにはいかないけど、料理は真剣勝負なのでそんなにおしゃべりをする余裕もなくて。そんなときにふたりがいることでどれだけお客さんに和んでいただけるか。この子たちが緩和剤になってくれるから、いよいよ本来の道に戻れるかなって思ってるんです」

思わず、「それは重大だぞ!」とミモちゃんとこむちゃんに話しかけると、大西さんも「そうだぞ!頼むぞ!」と追いかけて言った。

「でも、この子たちが人に対してフレンドリーだからお願いできることなんですよね。前の猫は人が来たらすぐ隠れちゃう、誰も見たことがないような幻の子だったんですけど、この子たちは人にストレスがないから、安心して一緒にいてもらえるんです」

ふたりの優秀な従業員さんたちを優しく眺めながら、大西さんは続ける。

「ほーんと長いことかかっちゃって。東京でお店始めたのが2006年で、15年かかってやっと本来の道に。ようやくです。こっちに帰ってきてよかったし、この子たちがきてくれてよかった。さっきお菓子が人気になるのにも時間がかかったってお話したけど、料理もそうで、そもそも作るのにすごく時間がかかるものが好きなんです。さっきのミネストローネとか。素材を積み重ねてじわじわおいしくするみたいなの。だからジミーに、ミネストローネのように生きていけばいいいじゃないかと。料理を作りたいってことしかないから野望もない。時間も材料も私のこころゆくまで、好きに作っていきたいなと思います」

 

わたしのパートナーvol.9 後編

昵懇(jiccon)

大西麻子さん

「こむぎことミモザ」

 

大西麻子●おおにし·あさこ 昵懇オーナーシェフ 5年間パリで料理修業を積んだ後、帰国。世田谷区経堂でカフェCura2を7年経営後、地元の湘南へ戻り、葉山に昵懇をオープン。大好きな料理を素材から手作りする毎日を送っている。

●昵懇 土日のランチのみ営業。完全予約制mail@jiccon.com 料理教室やお菓子の販売も。http://jiccon.com/index.html

 

写真·大段まちこ 構成、文·太田祐子(タブレ)

 

 

 

バックナンバー

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08 前編 福田里香さん
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