わたしのパートナー
my partner
家事をするとき、仕事にとりかかるとき。
これがなくては始まらない、というものがあります。
ふだん、とくべつに意識していなくても、 “ない”と気持ちが落ち着かない大切なもの。
連載「わたしのパートナー」では、いろんな仕事に携わる方々の、なくてはならない相棒を通して、仕事や暮らしへの思いを伺っていきます。
昵懇(jiccon)
大西麻子さんのパートナー·前編
「こむぎことミモザ」
東京から1時間、逗子駅で電車を降り、バスに乗る。御用邸もある葉山までの15分は、住宅の切れ目から時々海がのぞく楽しい道行きだ。バス停を降り、海を背に細い路地を進んだ左手に黒い板壁の古民家がある。「昵懇」は大人が食事とワインを楽しむ場所。7年前まで世田谷区の経堂でカフェを経営していた大西麻子さんが、心ゆくまで料理を作りたいと2013年にオープンした。
引き戸を開け、店内に入ると目の前の大きな木のボウルの中に茶トラの猫がいた。起きたばかりで今にもまた眠り込んでしまいそうなねぼけまなこ。そのボウルを置いた台の足元には、しっとり濡れた黒い瞳のジャックラッセルがうれしげにしっぽをふっている。
おねむの猫がミモちゃんことミモザ♂。つぶらな瞳のジャックラッセルは、こむちゃんことこむぎこ♀。
このふたりが大西さんの大切なパートナー。
コロナ禍の今、昵懇の営業は土日のランチ営業だけにしている。前菜、メイン、デザートのコース料理を作り、サーブ、お会計もぜんぶひとりでこなす大西さん。こむぎことミモザは、大西さんの邪魔をすることも厨房に上がり込むこともなく、プライベートスペースの2階とレストランスペースの1階を行ったりきたり。
「ふたりともかしこくて。お客さんがいらっしゃると、料理もして、愛想も良くしてって私ひとりだと難しいじゃないですか。出だしはどうしてもバタバタするし、てんぱっちゃう。この子たちがいるとお客さんが遊んでくれて。ホストというか、ふたりとも働いてくれてすごい助かってるんです」
子供の頃から家に動物がいる生活を送っていた。だから5年過ごしたパリでも三毛猫の月子と暮らしたし、帰国して経堂でカフェをやっていたときも、月子と5歳を過ぎてから迎えたジャックラッセルのニコ(♀)との3人暮らし。
「ニコちゃんはほんとに私のことが好きで。あんなに愛してくれる犬はいなかった。こむちゃんはニコよりぜんぜん飼いやすいし安心感があるけどニコは唯一、いちばんの子だったかなあと思います。噛んだり、襲ってきたり、決して扱いやすい子ではなかったんですけど、愛にあふれてて」
しかし、三毛猫の月子は2013年に、ニコは2020年の1月に18歳と7ヶ月で大往生を迎えた。
「ニコは亡くなる6、7時間前までお散歩して。ほんと、すごい子でした」
ふたりで越してきた葉山。ニコがいなくなって、家の中がずいぶん広く感じたし、生きる意味さえわからなくなったという。
「なんで生きてんだっけ、みたいな。ニコがいるからおうちに早く帰ろう、仕事がんばろうと思ってたのに。ニコがいないんじゃあ、なんのために私、生きてるんだろうって」
でも、そんな大西さんを支えてくれたのもやっぱりニコの存在だった。
「新年に食べるガレット·デ·ロワというフランスのお菓子があるんですけど、中にフェーブといって陶器の小さな人形(もともとはそら豆)を仕込んで、切り分けたときにそれが入っていた人は、その日一日祝福されるという。私は毎年、オリジナルのフェーブを入れたガレット·デ·ロワを焼いてて、20年はニコのフェーブで、ガレット·デ·ロワを100台作ろうと思った。そんなに売れるか心配だったけど、結局120台注文が入りました。それを作ってるあいだに、新年どころか4月になっちゃったんです」
この間、世の中はコロナで一変してしまった。でも、大西さんはニコのガレット·デ·ロワを作ることだけに集中してニコがいなくなってしまった時をすごした。
「お菓子を焼くことで気持ちも落ち着くというか。やるんだ!というだけで生きてたみたいな。それを作り終えて、ようやく、また犬を探そうって思えたんです」
そして大西さんはひらめいた。「この機会に猫がいてもいいじゃん?」
「同時にふたり迎えたほうがストレスもないだろうし。周囲にそんなことを話していたら、ミモザくんの話がきたんです」
ミモザは知人の紹介で隣町のお宅から迎えた。小さな子供のたくさんいるお宅でもみくちゃにされながら育ったせいかミモザにはドンと大きく構えた風情があるという。
「今や、我が家はミモちゃんがいないと成り立たない。この子の心の広さ、優しさがすさまじいんですよ。毎日3人で寝るんですけど、こむちゃんは脚のほうにいて、ミモザくんは上のほうで。こむちゃんはすごいお寝坊さんで、ぜんぜん起きてこないんですけど、ミモザくんは夜中でも私が起きるとついてきて、洗面所で待っててくれたりする。朝方起きて白湯でも飲もうかってときにもミモザくんは必ず台所までつきあってくれる。だから、こむちゃんと二人暮らしは想像つかないですね。ミモザくんがいないというのはずいぶん大変かも。大黒柱なんです。まだ1歳半だけど、なんなのかな?っていうくらい優しくて」
そしてミモザを迎えてからしばらくして、とあるトップブリーダーからこむぎこを譲ってもらうことになった。
「いろいろ考えて、こんど新たに犬を迎えるときはちゃんとした方から譲ってもらおうと思っていました。それは私がひとりだからというのもあって。本来、ひとりで犬を飼うというのは無責任なことだと思うんです。自分がいつどうなるかわからないじゃないですか。なにかあったとき、この子を誰かに託さなければならないことがあるかもしれない。だったら、オーナーが変わってもなるべくストレスなく、なじめる子でいてほしくて。フレンドリーで、環境が変わっても元気でいてくれるといい。そういった社会性をつけさせることを大切に考えているブリーダーさんだったし、私もそんなふうに育てるのが自分の責任だと思っています。実際、私、この5月に膝をおかしくしてシッターさんに預けたことがあるんです。そのときも楽しく過ごしていたみたいで‥‥」そう言って、床に目にやれば、こむぎこは無防備にもお腹を出してよく眠っていた。
こむぎこという名前の由来は、「私、小麦粉がいちばん好きな食材なので。よく使うし、小麦粉って世界中で重宝されてるじゃないですか。パンにもなるし、麺にもなるし。お菓子にもなるし。いいんじゃない? そんなかんじの子に育つがいい! スケールの大きい子に育つがいい!って。命の基じゃないですか、炭水化物は」
そう言って、愛おしそうにこむぎこを見遣る大西さんだった。
わたしのパートナーvol.9 前編
昵懇(jiccon)
大西麻子さんのパートナー
「こむぎことミモザ」
大西麻子●おおにし·あさこ 昵懇オーナーシェフ 5年間パリで料理修業を積んだ後、帰国。世田谷区経堂でカフェCura2を7年経営後、地元の湘南へ戻り、葉山に昵懇をオープン。大好きな料理を素材から手作りする毎日を送っている。
昵懇●土日のランチのみ営業。完全予約制mail@jiccon.com 料理教室やお菓子の販売も。
写真·大段まちこ 構成、文·太田祐子(タブレ)